吉田松陰を知っていますか?
知っている人は知ってる。でも興味のない人は、そういえば学校でそんな名前の人を聞いたことがあるな、くらいの人もいると思います。
好きな人は、その考え方や行動や言葉、また破天荒なエピソードにも惹かれているのかな、と思います。実は、心酔している人が多い人でもあります。
深堀すれば、いろいろと出てくる人物でもあるのですが、今回は「吉田松陰の元気が出る言葉と2つの破天荒エピソード」についてお伝えします。
吉田松陰の破天荒エピソードについて気になっている方は記事を読んでみてくださいね。
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吉田松陰は教育者であり思想家
吉田松陰は江戸時代後期の人で、松下村塾を開き、伊藤博文や山縣有、高杉晋作など明治維新で活躍した多くの若者に大きな影響を与えた教育者、思想家といわれています。
教育者というと、穏やかで落ち着いた優しい中にも厳しい面もある先生というイメージですが、この先生、どちらかというと破天荒でかッ飛んだ人です。
よく言われる突き抜けたエピソードは後ほど紹介しますが、まずは吉田松陰のこの言葉です。
吉田松陰の元気が出る言葉
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。ゆえに夢なき者に成功なし。
吉田松陰
吉田松陰は1830年~1859年、ちょうどペリーの黒船が来航し開国を迫ってきたころの人ですが、この言葉は現代でも十分に通用しますよね。
現代でも、夢を持つことはいいことだとよく言われますが、実際には「夢なんか見てないで現実を見ろ」とか「夢ばっかり見てやがって、早く大人になれよ」などと、夢に対して否定的に言われる方が多いように思います。
歌の歌詞とかでも、夢を持とうよ、なんていわれると、なんだか子供っぽい感じがしてしまいます。
しかし一方で、偉業を成し遂げる人というのはやはり、夢を描いて夢に向かって努力していくというプロセスを経て偉業を成し遂げる、という人が多いのもおそらく事実でしょう。
この、成功という夢に向かって、成功するためのプロセスをこれほど簡潔に説明した言葉もなかなかないと思います。
なんだか、自己啓発系のセミナーなんかでも、普通に言われてそうですよね。
吉田松陰って、もしかして昔の意識高い系のセミナーの講師みたいな人なの?
と思うかもしれませんが、個人的にはそれもシックリきます。
ただ、実はこの先生、とてもメチャクチャな人だったんです。
いやメチャクチャというか、大先生なのに、何をやるかわからないところがあって、過激な行動も厭わない。先生なのに喧嘩になると真っ先に殴り掛かり、弟子に止められるというような、なんというか先生なのにどこか放っておけない無邪気なまっすぐさがあるんですよね。
先生、先生、と人が集まるのは、なんかわかる気がします。
吉田松陰は、そのかっ飛んだ行動で自身の信念、思想を貫き通した人ともいえます。
弟子は明治維新の重要人物ばかり
吉田松陰は1857年に、叔父の主催していた松下村塾の名を引き継ぎます。
松陰は松下村塾を開き、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、入江久一、吉田稔麿、品川弥二郎などなど、後の明治維新の重要人物たちを教育しました。
吉田松陰の門下生は、明治維新の重要人物がたくさんいますが、松下村塾の入塾期間は山縣有朋のように1か月ほどと短い者もいます。
しかし、山縣有朋は、生涯「松陰先生門下生」と称し続けたということです。
それほど大きな影響を受けたということなんでしょうね。
吉田松陰の破天荒エピソード2つ
前置きが長くなってしまいましたが、松下村塾や尊攘志士のことは、こちらでは置いておいて、吉田松陰のかっ飛びエピソードを2つばかり紹介したいと思います。
エピソード1 友人との待ち合わせのために脱藩
吉田松陰は長州藩の武士、いわゆる長州藩士です。長州藩は現在の山口県になります。
1850年というので、松陰が20歳のとき、友人の宮部鼎蔵(ていぞう)と東北旅行を計画します。
ところが、出発日までに通行手形の発行が間に合わず、吉田松陰は約束を守るために脱藩してしまいます。
脱藩とは、武士が藩を脱出して浪人になることです。
当時としては最悪死罪になるほど重い罪です。
結果、吉田松陰は士籍剥奪、世禄(その家の継承者が受ける俸禄)没収になってしまいます。
もちろん、これは約束した出発日に通行手形の発行が間に合わなかったので、その約束を守るために、ということなんですが、言っても友達との旅行です。そのために最悪死罪なることもあるという脱藩までしてしまうとは、宮部鼎蔵(ていぞう)もさぞ驚いたことでしょう。
吉田松陰「待ち合わせに間に合わないから、脱藩してきたぜ」
宮部 鼎蔵 「えぇ! マジか!!」
エピソード2 ペリーの黒船に小舟を横付け「連れていけ」
また、ペリーが黒船で来航したとき、弟子の金子重之輔とともに黒船に小舟を横付けし、黒船に乗り込みます。
アメリカに連れていけ!
西洋文明に憧れを抱いていた吉田松陰は「アメリカに連れていけ」と要求しますが、あえなく撃沈。
ペリーは日米和親条約の締結のために来航していて、幕府とのトラブルは避けたいところ。吉田松陰の要望を拒否しますが、報告書で吉田松陰の死をも恐れぬ知識欲と行動力に驚嘆し、賞賛しています。
ペリーも驚いたでしょうね。
「乗り込んできた日本人は、アメリカに連れていけと言っています」
「!!・・・」
小舟がない!
実はこのエピソードには続きがあります。
要望を拒否され、諦めて帰ろうとしたとき、吉田松陰は横付けしていた小舟が流されてなくなっていることに気づきます。
黒船のボートで岸まで送ってもらった吉田松陰たちですが、
実は黒船に横付けした小舟は漁民から盗んだもので、なおかつ2人は荷物を積んだままだったので、松陰はこれはマズイと懸命に探します。
当時、海外に渡航することは国禁であり重罪でした。小舟が幕府に見つかってしまえば大変なことになります。
自主、そして牢獄行き
ついに、小舟は見つからず、松陰と重之輔は観念し、下田町隣村の名主に自首。伝馬町の牢屋敷に送られました。
重之輔は、藩籍を離れていたため、過酷な牢獄を転々と移され士分以下の者が入る岩倉獄で病死。
吉田松陰は、最終的に士分が入る野山獄へ収容されました。
1853年に出獄を許され幽閉処分になります。
1856年、自宅謹慎中の吉田松陰が近所の子弟に講義を始めたのが、松下村塾の開塾へ繋がったとされています。
破天荒なイメージに隠された意外な人柄
吉田松陰のこの2つのエピソードだけでも、その破天荒さがわかりますね。
吉田松陰は、これらの破天荒な人生、行動の数々が注目されることも多いですし、実際本当に破天荒だといえると思うのですが、その人柄は、実に温和で丁寧な人だった、と言われています。
妹の千代は、子供時代は実に従順で、ただただ言われたことをを言われたようにやる子どもだった、と回想しています。怒ったりすることもなかったようです。酒もたばこもやらず、生涯女性との関りもなかったようです。
ともすれば、その破天荒な人生から、エキセントリックな人柄を想像してしまいますが、実際は実直で真面目、そして正義感の強い性格、人柄だったようです。
こんな先生は、現代ではもういませんが、その行動力や衝動に従って突き進むところには惹かれるものがありますよね。
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。ゆえに夢なき者に成功なし。
吉田松陰
名言として語り継がれているこの言葉ですが、個人的には「愚かであれ」と言った、スティーブジョブズを思わせる次の言葉のほうがシックリくる気がします。
諸君、狂いたまえ!
吉田松陰
実は真面目で実直な人柄だった吉田松陰が言ってこそ心に響く言葉だと思います。
松下村塾の精神をベースにした学習塾「松陰塾」
教育者として語られることの多い吉田松陰ですが、エピソードを見ると結構ヤバめの人物にも思えますよね。
しかし吉田松陰の「松下村塾」は今でも教育方法として非常に注目されています。
松下村塾の精神を受け継いだ塾(学習塾)の一つに「松陰塾」があります。
松陰塾の「松陰」は、幕末の教育者「吉田松陰」からきています。
松陰塾は、有名な松下村塾の精神をベースに個別指導歴40年以上の実績を持っています。
子供が自ら学ぶ塾
ということで、従来の集合指導・個別指導を徹底的に見直し子どもを自立学習へ導く「塾」を開発してきたということです。
松陰塾と同様の教育法でオンライン学習ができる【ネット松陰塾】もあります。
担当の先生がついて子どもを個別で見守りながら指導します。
吉田松陰の元気が出る言葉と2つの破天荒エピソード まとめ
というわけで今回は「吉田松陰の元気が出る言葉と2つの破天荒エピソード」についてお伝えしました。
教育者として語られることも多い吉田松陰ですが、結構破天荒なエピソードも豊富で意外に思った方もいるかもしれませんね。
吉田松陰の元気が出る言葉も紹介しました。
参考にしていただければ幸いです。
というわけで今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
「諸君、狂いたまえ!」
